記録

勉強したことに関するのノート。見返して分かるようにしてます。

4-1:もっと哲学

<子ども>のための哲学を読んで分からなかったり思ったことをまとめていきます。
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蒙昧(モウマイ):知能が低く、当然そうある道理に暗いこと。

確かにその時間を生きていた確信はあるのに、私がどんなことをしたのかあまり思い出せなかったり、気づいたら電車の乗り換えをして目的地に到着していたことがあります。このことをもう一人の自分がいる(=二重人格?自分がその行為をしたことは覚えているが人ごとのように思う)ように感じていましたが、作者はぼんやりと生きている、蒙昧状態で生きているというように感じていました。私はそれを「心的状態のない他人」を体験しているのではないだろうかと考えました。

作者は世界を「舞台(世界)は自分のためだけにあり、その上で繰り広げられる森羅万象」として認識している。自分は観客?役者?舞台そのもの?シアター全体?

独我論において「心を持つのは私だけ」としている。なので私以外は心を持たないがそう振る舞う「哲学ゾンビ」としているが、実は世界がほぼ全員哲学ゾンビであふれていて、その中に極少数の心を持つ能力者みたいなのがいる、みたいな状況も考えうるのではないだろうか。ウィトゲンシュタインは哲学ゾンビの存在と自分の心を知ることはできたが、実は他にも少数の心を持つ存在を知ることができなかっただけなのかもしれない。

私は共感性羞恥という現象をよく起こします。
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なので、昔のドラマによくある嫁が姑に理不尽に怒られたり、会社で上司に怒られる新入社員、親に怒られる子ども、失敗が確実そうな行動の選択などを見ると特にその場から離れるか音楽や動画を見てその状況を頭に入れないようにしたくなります。
国民的アニメ(ちびまる子ちゃんサザエさんドラえもんクレヨンしんちゃん)をなぜ嫌っているのか昔はよくわかっていなかったのでよく母に「なんであんなアニメは見れないのに他のアニメは見れるの、おかしいじゃん」と言われました。
独我論を少し信じている私が哲学ゾンビに共感するというわけ分からない状況になっているのは不思議ですが、一般的に哲学ゾンビだろうが心があろうが同じ「人間」としてまとめられているのです。同じ人間だから何か無意識的に共感が生まれているのかもしれない。同じ人間なら、もしかしたら私は哲学ゾンビに生まれたかもしれない世界もあったかもしれない。だから私は「多く候補があった内の1つの私」で、他人は「選ばれなかった沢山の私」なのかもしれない。魂と肉体に分けて考えた時に、肉体はたくさん生まれる予定が有るけど魂の生産が追い付いていないような感じ。納品数は決まってるから仕方ないから魂入りの肉体と魂の入っていない肉体をやむなく神様が出荷したと考えてもいいかも。今向かい合ってる他人は魂が入っていようが入っていなかろうが私の魂が入ったかもしれない肉体だったかもしれない。

自分とは何者かを考えることは水の中にいる状態で水を探すのと同じ。自分とは何者かではなく、他人との違いが何かを重視した。他人も他の人と違う特徴を持っている限り十人十色である。私だけが特別なのは「私」が自分であり、「他人」が自分でないから。

もし、今突然私の肉体と魂が分離して肉体だけ残った時、周りがその事実には気づけないし、私も肉体を失っているので脳で考えることができなくなるとその事実には気づけない。
いつだったか、体を乗り換え続けて生き続ける魔女、みたいな話を見て怖くなった記憶がある。もしかしたら自分もいつか乗っ取られて自分が消えてしまう恐怖があった。でも、消えてしまったとしても、それを知覚できないのであればそれほど怖くないのかも、と今思った。そして同時にもし肉体が死ぬ≠魂が死ぬor分離するだった場合、肉体が死んで何も感じないが、「私」が存在し無を感じると考える可能性もないだろうかとも考えた。

私が私であることは比較しようがない奇跡である。これが独我論の本質かもしれないと作者は考えている。

何故哲学が存在するのかといえば人には寿命があり、結論まで行きつかない。例えるなら本かもしれない。とある本が書かれているが作者は途中で亡くなった。それを見た他の人が続きを書いていく。その「他の人」は少なくともその本と近しいことを考えており、出会ったことで「他の人」は刺激を受けその本はその人にとって意味を持っていく。本は文字で「自分の中で文字化できなかったもやもやしたもの」がすでに文字になっているのかもしれない。それをどんどん受け継いで書き足して未来の人にまた刺激を与えるものになっていく。書きかけの本は「哲学」という棚に陳列され、皆が見ることができる状況。本に優劣はない。

誰もが持つ「自分の名前」は肉体と魂、どちらに名づけられたものだろうか。大抵は肉体と魂は融合したものであって、よく考えることはない。自分の本質は身体の連続性によるものか、精神の連続性によるものなのかどちらだろうか。

「自分とは」と考えるとき、どうしても他人の存在を無視することはできない。しかし、自分と他人を同列で考えることはできない。むしろ、主観だからこそ自分は自分だと考え、自分じゃない人は他人だと思える。

独我論は「自分で信じられることは感じたことだけ」問う言葉で終わるようなものではなく、「自分の存在の奇跡性」「周りや他人をどう認識するか」「世界をどう認識するか」など、割といろいろ複雑そうな感じ。

世界は各個人で存在し、その視点が私である。何か他人に話している時、話している内容は私という主観で解釈した世界を言葉で表現している、と作者はひとまずの答えとした。。例えば夕焼けを私と誰かが同じように見て、誰かは赤い夕焼けはやっぱりいいと感じても、私はカラフルなグラデーションの夕焼けのほうが素晴らしいと感じる。透明な青と薄い緑が融合したような緑の光がいいと思っても、その良さは他の人に伝わらないかもしれないとここ最近よく思っている。


「第一の問い」のみ読みましたが、難しい箇所が多く、理解できずにいくつか飛ばして読みました。
今週はこの「もっと哲学」に加え、「入れ物のあるゲーム」の研究も予定していましたが、今週はアニメーション制作の授業の課題で土日が全部潰れました。絵を描くのは好きだけど永遠とも思えるような似ている絵を描き続けて疲れて悲しい。30秒の動画を8fpsで作ってるのですが、240枚…アニメーターの人は本当にすごいなぁと思った週末でした。